2001.5.19

小説「坂の上の雲」を読んで その3

◆陸軍と海軍

 私は戦争には当然ながら反対である。子供を持ってからはより切実にそう思う。しかしながら、ここでは「組織の運営」ということを考えるにあたって軍隊をその対象にしようと考えている。その結果として戦争好きと思われるような記述が出てくるかもしれないので予めいい訳をしておく。
 
 以前、日露戦争当時の日本は国の運営者たちが無私であったために、高い組織運営能力を持っていたというようなことを書いた。が、どうも日本の中でも組織運営について、割り合い明確なコントラストをなしている例がある。陸軍と海軍である。この当時、まだ幕末のころの薩長の影響力というのが強く、藩閥という形の弊害(といってよいと思う)が残っていた。それを象徴する言葉として「長の陸軍、薩の海軍」というのがある。陸軍では長州閥が強く、海軍では薩州閥が強いという意味だ。
 
 しかしながら両者を比較すると陸軍の方が藩閥意識が強く海軍の方が藩閥意識が少なかった。これは両者の歴史的背景が関係するかもしれないが、敢えて人物に理由を求めてみると陸軍では長州人で陸軍の最高実力者の山県有朋ということになるだろう。山県は権力好きだったために藩閥を利用し、あるいは対抗勢力の薩摩閥を敵に回さないよう配慮したりした。その結果人事面でも多分に長州人と薩摩人のバランスをとって...といったような、能力主義の観点からすると純度の低い配置の仕方をすることがあった。
 その最大の例として、旅順要塞攻略軍(第三軍)の司令官、参謀長の人事が挙げられる。旅順要塞の攻略は当初プランに入っていなかったのだが、戦況が進むにつれそれが必須事項になり急遽軍の編成を行うことになった。が、陸軍では旅順要塞に対する認識が浅く、能力ではなく藩閥の事情で人事を決めてしまった。詳細は割愛するが、結局この第三軍は日本を危機的状況に追い込むことになった。
 
 一方海軍では西郷従道と山本権兵衛(ごんのひょうえ)という二人の薩摩人を代表的人物として挙げることができる。両者は日清戦争の前に海軍の大刷新を断行したコンビである。当時大佐に過ぎなかった山本は、海軍の無能幹部の大量首切りを西郷の庇護の下に行った。当時の海軍の将官・佐官には、薩摩出身というだけで艦船の知識がない者や、維新からの生き残りで過去の功績により高い地位についているが帆船時代の海軍知識しかない者などが多かった。それらを整理して、正しい近代海軍の教育を受けた有能者をその地位につけたのである。この改革で首を切られた将官・佐官は96名にものぼり、その多くは山本の同郷の先輩である。大佐に過ぎない山本の大改革には当然抵抗があったが山本は屈せず、海軍大臣だった西郷も各方面から苦情がはいったときには自ら政治処理をし、山本の働きやすいような環境をつくった。このエネルギーはひとえに日本を守らんとする気持ちから出ている。この二人の働きで「薩の海軍」は事実上葬られた。
 
 つまり、陸軍では多分に古い頭脳がのこっていたのに対し、海軍では日露戦争の10年前の日清戦争に望む際に刷新を遂げたことになる。日露戦争では陸軍と海軍とで戦争を行っていくための組織運営に関して大きな差があるのだが、この辺の事情が大きな要素となっているように思われる。
 例えば、砲弾の消費量の計算など同じ国の軍隊とは思えないほどである。海軍では元々の備蓄分に加えて戦時中の砲弾生産量も十分計算されており、砲弾不足という事態は皆無だったが陸軍はかなりひどかったようだ。もはやギャグの世界に突入している観がある。
 
 朝鮮半島の付け根、平城付近から上陸し、満韓国境方面のロシア軍を駆逐するべく進軍したのが第一軍だった。陸軍におけるロシアとの第一戦を行うことになる第一軍にこそ、華やかに勝利をおさめ外債の募集をやりやすくする目的から、陸軍大本営は大砲・砲弾を豊富に供給した。しかし、日露戦争を通じて砲弾不足の心配がなかったのはこの開戦当初の第一軍だけであったように思われる。
 その後、遼東半島の大連付近から上陸した第二軍が、南山のロシア陣地の攻略に向かったのだがこの戦いで日本陸軍は近代戦闘における砲弾の消費量というものについての認識不足を知ることになった。
 南山陣地自体はわずか1日で攻略できたのだが、このわずか1日の戦闘で日清戦争で使用した全砲弾量を越えてしまっていたのである。ちなみに南山陣地は遼東半島の先端にある203高地で有名なロシアの旅順要塞の北方にある。日本軍に旅順要塞の補給線を分断されることをおそれた旅順要塞のロシア軍が急きょ建設した陣地であり、それなりに堅固ではあったものの旅順要塞のような永久要塞とは比較にならない程度のものだ。
 陸軍の迂闊さというのは、「戦時下において砲弾を生産する」ということをどうやら忘れていたらしいことである。さすがに、最初に持っていく分の砲弾は常時用意してあったものの、それらを撃ちつくしたあとの補給に関しての考えが欠落していたということである。
 この時代、陸軍の砲弾は東京と大阪の工廠で製造されていたが、1日の生産量がわずか300発だったという。本の記述によれば、「300発というのは、砲兵1個中隊で迅速射すればわずか7分30秒でうちつくすという程度の数量」ということだ。これを読んだときはさすがに笑ってしまったが、一方で「『世界一の陸軍国』といわれたロシアにどうして勝てたんだ?」という疑問もわいてきた。
 ともかく、陸軍では「砲弾が溜まるのを待つ」というのが、大きな戦略要素になってしまった。後世の気楽な立場から見れば、気の毒やらおかしいやら複雑な心持ちである。

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